【進化せよ、日本】

 

〜代表・緒方義志の言いたい放題6〜

 

 

 

 

「精神不在の宗教行事」

 

 

そして私の心が激しく動揺する12月がやって来ました。

日本人はかくも安易にクリスマスを祝うべきでないと考えている私にとって、

この時期は一年で最も日本人の精神構造についてあれこれと考えてしまう時期でもあります。

どこの誰がどんな行事をどんな気構えで行おうが、個人の自由であることは十分わかってはいるのですが、

毎年12月の街の風景を傍観するにつけ、日本人が精神を介在させずに

表面だけでクリスマスを作りそれを楽しむ様は、実に浅薄で恥ずかしいことだと思うのです。

 

日本という国は民主主義国家で、何を考え何を思い何をしようが、法に触れない限りは原則的に自由です。

特に、個人の宗教や思想に基づく行為に関しては、国家や権力は何の強制力も持ちません。

ですから、キリスト教信者でない人がクリスマスを祝おうが、そもそもクリスマスとは何かということすら知らない人が

「メリー・クリスマス!」と嬉しそうに叫ぼうが、誰からも咎められる筋合いはありません。

しかし、それでも私は敢えて反対します。私たち日本人は、自分と精神的につながっていない宗教の行事や祭事を、

流行や惰性で容易に行うことを慎むべきです。私がそう思う理由は、

別に「宗教に対して真剣であれ」とか「異国の宗教を易々と受け入れるべきでない」といった

倫理的、思想的、宗教的、精神的なイデオロギーめいたものではなく、それはひとえに、みっともないからです。

これこそ日本文化の品格と内なる魅力、そして他者からの尊敬をボディブローのようにじわじわと奪い取っていく

非常に自虐的な行為だと私は考えます。私達は、そろそろ自分たちのしている行為の思慮の浅さと野暮ったさに気づくべきではないでしょうか。

 

誤解をされてしまうといけないので、右の論旨を展開する上で予めお断りしておきますと、

私はキリスト教とクリスマスを批判しようとているわけでは決してありません。

今更誰に説明することもないことですが、クリスマスとはキリスト教という特定の宗教における宗教行事で、

イエス・キリストの誕生日を祝うキリスト教最大のイベントです(クリスマスの起源を紐解くと、

この行事が他宗教の祭事と混ざり合っているという説に行き着きますが、余談になるのでここでは控えます)。

もともと、キリスト教はパレスチナの地で発祥したユダヤ教から派生して興った宗教で、

後にローマ帝国の国教にまで制定されさらに勢力を拡大し、地中海地方全域から世界各地へと広がり、

今日では世界中にキリスト教徒は約20億人いると言われています。

日本も当然、キリスト教布教の対象国となり、かの有名なフランシスコ・ザビエルが日本にやって来て以来、

日本にもキリスト教が伝わりました。しかし、他国と比べると、思いのほか日本にはキリスト教は根付かず、

今日、日本のキリスト教徒は総人口の1パーセントに満たないと言われています。

私が苦言を呈したいのは、キリスト教徒の人口が全体の1パーセントにも満たない日本人が、

精神的意味づけを欠いたまま集団的にクリスマスを祝っている現状に対してです。

 

私の友人知人の殆どはクリスマスを何らかのかたちで祝います。

家族でケーキを食べる人もいれば、友達を大勢集めてクリスマスパーティを開く人もいます。

また、多くの人が大小の差こそあれ、自宅にクリスマスツリーを飾り、誰かしらとプレゼントの交換などをします。

この時ばかりは皆一様に楽しそうです。私はよく、皮肉を込めて、「なぜクリスマスを祝うのか」と

そんな友人達に聞いてみます。それに対して帰ってくる答えは、大抵こんな感じです。

「楽しいんだからいいじゃないか。何でそんなひねくれたことをきくのか。

ここまできたらクリスマスだって立派な日本の文化だ」と。

 

確かに、私も幼い頃はそれらのすべてをやっていました。クリスマスが楽しかったのは、

やはり母が私や妹のことを想ってとびきりの特別感を演出してくれたからでしょう。

学生時代に柔道をやっていて、思想的にも相当保守的な父ですら、クリスマスプレゼントは必ず買ってくれましたし、

ある時にはとても大きなクリスマスツリーを買ってきてくれて、しばらくはそれが私の中で仲間に対する自慢の一品にもなっていました。

おもちゃ屋に行ってもお菓子屋に行っても、クリスマスの飾り付けは見る度に何故か気分を盛り上げてくれ、

街中で流れているクリスマスソングはそのわくわくした気持ちをさらに高めてくれていました。

家に帰れば自分で飾りつけたツリーの電飾が楽しげに光っているし、テレビをつければコマーシャルまでもがクリスマス仕様に変わっているので、

この時期は否が応でもクリスマス気分に浸りきることができるのです。実にありふれたクリスマスの思い出かもしれませんが、

このように私もクリスマスを楽しんでいた子供の一人でした。

 

しかし、ある時期から私はクリスマスという行事を少しだけ客観的に見るようになりました。

それは、多分、キリスト教の私立中学校に入学して、キリスト教を一つの宗教と捉えるようになってからのことだと思います。

残念ながら、私にとってキリスト教は感覚的にしっくりくるものでなかったため、いつしか私にとってのそれは、

数ある宗教の一つという位置づけになりました。そこで私は考えます。なぜ、それでも私はクリスマスを祝うのか。

その問いに対して、「イエス・キリストの生誕を祝う特別な日だからだ」という答えは、

それ以上でもそれ以下でもなく、それが自分の精神に何らつながりを持たないということだけが明確になったのです。

なぜなら、そのイエス・キリストという歴史上の偉大な宗教家の存在は、自分の人間形成の過程においてどこにも登場しなかったからです。

聖書の授業で彼の偉業についてはいろいろと学びはしたものの、自分という存在との精神的な因果関係はどこにもないということが分かりました。

ゆえに、あそこまで気分を高めて派手に生誕を祝う間柄では到底ないということに気付き、今まで自分がやってきたことに恥ずかしさすら覚えたのです。

 

以降、私はその思いを徐々に強めていき、12月になると途端に日本中に広がる「クリスマス現象」に対し違和感を覚えるようになりました。

私は大人になるにつれ、クリスマスという行事とは意識的に距離を置くようになり、大学生の時などは、

この現象に対する反骨精神のささやかな発露として、好きな女の子をわざわざ12月24日に誘って、

ジャッキ−・チェンの映画を観に行き、その後ファーストフード店で軽く食事をして別れるということをやったりもしました。

周囲の男友達がこぞってクリスマス・イヴは彼女や好きな女の子とどこでどうやって素敵に過ごすかということに全精力を集中し、

当時出たての「トーキョーウォーカー」などを買ってはクリスマスの演出に余念がない中、

「俺にとっては12月24日も25日もただの平日さ」ということを言いたいがためだけの私なりの子供じみた自己表現だったのです。

 

しかし、自分一人がこの現象に対して不参加を表明したところで、

日本全体が塊(かたまり)として精神不在の宗教行事を毎年賑やかに行う様をその一員として傍から見ているのは、

実に寂しく嘆かわしいことです。そんな思いを毎年募らせる私は、この時期になると決まって友人に問い質してみます。

キリスト教徒でないあなたが一体なぜクリスマスをこうまでして祝うのか、と。

私が今までにもらった典型的な答えとして、次の2つが挙げられます。

@クリスマスは日本人にとってはもはや宗教行事ではなくて、ただのイベント。要するに、ノリ。せっかくのイベントなんだから、楽しまなきゃ。

A自分はクリスマスなんてやらなくてもいいんだけど、やってあげないと妻(または彼女)や子供が可哀そう。

そして、ほとんどの人達が口をそろえたように、こう言います。「クリスマスをやらないのはお前の勝手だが、

これだけクリスマスというイベントを楽しみにしている人がいる状況で、これに反対の立場を取るというのはあまりにも行き過ぎではないか。

クリスマスを祝うか否かは個人の自由だ。クリスマスを祝ったからと言って、誰に迷惑がかかるわけでもないし、

むしろ日本におけるクリスマスの経済効果は計り知れない。この順応の早さとノリの良さが日本人の長所でもあるのではないか。」

 

この二点の言い分に共通するのは、もはやキリストの誕生日などどうでもいい、ということです。

日本でのキリスト教徒の人口が総人口の1パーセントだとすると、99パーセントの日本人がキリスト不在のクリスマスをやっているということになります。

クリスマスとは名ばかりの、意図も中身もないすっからかんの宗教行事が、わが国では最大級の国民的行事となっているのです。

英語のCHRISTMASという言葉は、文字通り「キリストのミサ(礼拝)」という意味です。

この時期「Merry Christmas」という言葉が街中に氾濫しますが、大半の日本人にとってこの言葉は意味や概念が抜け落ちた、

ただの文字であり音でしかないということです。企業とメディアにとってこの上ない販売促進の道具として何十年もの間利用され続けたクリスマスは、

世代を超えて私たちの意識の中に年間の一大イベントして刷り込まれ、今では意味の不明な、しかしとても楽しい習慣として定着するようになりました。

精神の通わない宗教行事に国中の人々が参加して、その意味を感覚として認識できないような祝いの言葉を連呼するこの国の12月の風景を俯瞰してみると、

それは極めて異様な光景です。テレビや映画で見た外国(と言っても、ほとんどアメリカでしょうが)のクリスマスを自分たちも体験しようと、

風景と行為だけは真似てはみるものの、その楽しさや満足の実態は、「日本の12月もかなり本場に近づいてきたね」といった具合のものなのかもしれません。

そんな日本の「クリスマス」を本場の人たちが見たら、ただひたすら苦笑するしかないのではないでしょうか。

 

この時期になると街は一気にクリスマス気分一色になり、街中がきらめく電飾と心弾ます(そして、

時には心を洗うような)クリスマスソングに包まれます。この期間は、誰もがいつにも増して幸せな気分になるそうですが、

私に限ってはただひたすら重たい気分でこの国のあり方について憂いを抱いてしまいます。

これを読んでいる人は、私がどれだけ保守的で狭小な心の持ち主かと思うでしょうか。

子供から老人まで誰もがこんなに心を躍らす楽しいクリスマスにケチをつけるなんて、義志の代表はさぞ心の屈折した寂しい人間なのだろう、

と思う人も中にはいるかもしれません。しかし、私は決してそんな人間ではないと、少なくとも自分ではそう思っています。

場合によっては、あんなにノリが悪く偏屈なデザイナーの作る服はもう着るものか、と見切りをつけられてしまうかもしれません。

それでも私は敢えて言いたいと思います。「日本の皆さん、もういい加減にしましょうよ」と。

 

クリスマスを祝う私たち日本人は、はっきり言って格好悪すぎます。

もし私が日本人でなかったら、こんな民族を傍から見て「かわいらしい」とは思えど、決して畏敬の念を抱いたりすることはないでしょう。

異国の宗教や文化の表面的なかたちと様式にだけ憧れて、無思考・無精神状態でただひたすら本場の気分を模倣している民族。

その民族のノリの良さと思考停止の状態に付け込んで、次から次へとさらなる楽しい演出を焚き付ける国内外の企業。

この2つの塊が意気投合するかたちで、日本はどんどん自分の本来の姿を見失いつつあるのではないかと、

焦燥感に駆られるのは私だけでしょうか。確かに、この現象は誰にも迷惑がかかっていないですし、

むしろこの時期にはいろんなかたちで「幸せだ」と感じる人が多いのかもしれません。

しかし、今が楽しければいいという極めて刹那的で文化保守および発展の長期的展望を欠いた今日の私達の行為は、

いずれ子孫の代において「日本人としての自尊心の崩壊」を招くのではないかとただただ心配でなりません。

ともすると、それはもう既に始まっているのかもしれません。

 

話は少々変わりますが、物理学にエントロピーの法則という考え方があります。

エントロピーとは熱力学で、対象とする系内の状態を表す量の一つとされ、秩序ある状態はいつの間にか乱雑な状態になり、

その現象は一方向にだけ起こるというのが、エントロピー増大の法則です。これを言い換えると、

宇宙は、時間とともにすべての秩序を失っていくというある種の真理でもあります。

私などは、これについては少々聞きかじっただけで浅い理解しかしていないとは思いますが、

私なりに簡単に説明すると、こんな具合です。

 

熱いコーヒーにアイスクリームを入れればそのうちにアイスクリームは溶けてコーヒーと混ざり合います。

その逆方向の現象、つまり、溶けたアイスクリームがコーヒーから自発的に分離してアイスクリームに戻ることは、

絶対に起こり得ないということです。要するに、仮に元々のコーヒーという物質が「秩序」だとすれば、

アイスクリームが均一に混ざることによって「秩序」が「乱雑」な状態に変化したということです。

そして、この「乱雑」な状態から「秩序」への変化は決して起こらないのです。

この「秩序ある状態」から「乱雑な状態」への変化の量を、エントロピーの量と言うそうです。

 

もう少し話を発展させてみましょう。このアイスクリーム入りのコーヒーに、その質量の2倍の牛乳を加えます。

そうすることにより、コーヒーは更に乱雑な状態へと変化して、見た目も味もコーヒーらしさを失います。

もしコーヒーに強い自我があったとするならば、この状態になっても「俺は牛乳がたくさん混ざったコーヒーだ」と言うでしょう。

しかし、他者からの認識としては、この物質はもはや「コーヒー」ではなく、コーヒーの混ざった「牛乳」ということになります。

そう思われるのは不本意だと嘆いたところで、コーヒーという「秩序」はもはや誰からも認識されないくらい

「乱雑」な状態になってしまったということです。エントロピーの量が増大しすぎたことにより、

コーヒーは他者からはそうと認識されないくらいにまでコーヒーとしての秩序を失ってしまったというわけです。

 

このエントロピー増大の法則は、自然環境と文明の関係を議論する際にもよく語られることですが、

これを自国の文化と異文化、または自国の風俗と他国の風俗といった関係に置き換えて考えることもできるのではないかと思うのです。

文化や風俗というものは、当然のことながら時代の変遷とともに他者と混ざり合いながら変化していくものです。

これらもコーヒーと同様、秩序から乱雑な状態に向かって変化していく運命なのですが、

文化・風俗においては何を「秩序」の状態と考えるかが難しいところです。しかし、コーヒーもどうせ変化するなら、

美味しく、かつコーヒーらしく変わっていかなければ、コーヒーはコーヒーとしての存在価値を失ってしまいます。

 

同じように、日本の文化や風俗も日本という個性をしっかりと残しながら進化していかなければ、

誰からも日本だと認識されなくなる存在になってしまうのではないでしょうか。 

エントロピー増大の法則は宇宙の真理ですので、それに抗うことは不可能です。

なんだか、仏教思想の「無常観」と似ている気もしますが、全てのものは変わらずにその形を留めことはできないということです。

ゆえに、文化もコーヒー同様、「変わらない」ことは絶対に不可能です。しかし、先のコーヒーとの違いは、

化は人間の意志によってかたち作られるものであるが故、人間の意思を持って変えることが可能です。

人間が文化のエントロピーの量を調節することで、その乱雑さを調整することができるだけでなく、

何とどう混ぜ合ってどの様な変化を促していくかということも、日本文化という一つの系内に存在する私達が

意思を持って働きかけることができるのです。そのときに、日本文化、または日本らしさという「秩序」を

大切にするかしないかということも、全ては日本人の意思次第ということです。

 

さて、ではこのときに、日本の個性の核となる「秩序」をどこに見出すべきか。

私は、その鍵は「精神性」と「連続性」という言葉にあると考えています。

ここで言う「精神性」とは、文字通り自らの行為の中に精神が通っているかということです。

例えば、私がクリスマスカードを書いて「メリークリスマス」と言ったところで、

その言葉の中には私の精神はこれっぽっちも入っていません。そこにはイエス・キリストの誕生を祝うという

クリスマスにおいては極めて基本的な感情が欠如しているのですから。ましてや、「ハッピー・ハロウィン!」などと

他人から笑顔で言われても、それに対してどのような感情を抱けばよいのか、私にはさっぱり分かりません。

一方「連続性」とは、歴史における脈絡というか、正当な筋道があるかどうかということです。

風俗・慣習というものは、基本的には親から子へ、子から孫へと伝えられていく中で、その民族の心に先祖や郷里に対する

豊かな愛情を育んでくれます。また、それらは、今日を生きる私達に時間を越えて祖先との繋がりを認識させてくれる、

人間にとっては極めて大事なものなのです。その過程で風俗・慣習のかたちが徐々に変化していくのは至極当然なことです。

しかし、クリスマスとハロウィンはやるけれど、他の伝統行事はあんまりお洒落じゃないし関連グッズもかわいくないからやらない、

では、それは祖先との繋がりを断つのも同然で、親としての大事な仕事をひとつ放棄したことと一緒です。

「連続性」とは、そのような自己の起源や歴史に対する精神的な繋がりと捉えてもよいのではないかと思います。

 

上記を踏まえた時に、例えば米国文化においては、ハロウィンもクリスマスも、その風俗・慣習の中に

大なり小なりの「精神性」や「連続性」を見出すことができるので、私達異文化の人間から見ても、

それらは理解が可能ですし、だからこそ魅力的なのでしょう。ところが、だからといって、

その魅力的な慣習や風俗を私達のようにそれらの行為に対する「精神性」や「連続性」を持たない者が

好奇心や憧れで取り入れてみても、とても滑稽で違和感のある文化となってしまうのは自明と言えます。

私は、欧米の文化には大変興味があり、どの国の文化も個性があって魅力的だと思います。

しかし、それらは、私達とは全く異なる文化だからこそ惹かれるのであって、彼らがその個性を大事にしないようになったら、

私がそれらの国々の文化に対して抱いている尊敬や憧れは恐らく萎えてしまうはずです。

裏を返せば、このまま私達日本人が自分達の文化・風習を大事に育まない傾向が続けば、

日本はいずれ誰からも愛されず、尊敬されず、憧れてももらえない国になってしまうということです。

 

私達がこれからの国際社会で輝く存在になりたいと心から願うのであれば、この部分の頑固さは

ある程度必要なのではないかと考えます。これは、狭小な鎖国主義や国粋主義などではなく、

日本という国を総合的に演出していく上で、あまりみっともないことは極力避けたいという観点で言っています。

大多数の非キリスト教徒による国民的な「キリスト教礼拝=クリスマス」がみっともないことに当てはまるのかどうかは

皆さんのひとりひとりに考えていただきたいことですが、私にとってはとっととやり過ごしてしまいたい年末恒例の

みっともない騒動でしかありません。その反動も手伝ってか大晦日から正月にかけての数日間は心が動揺せず

本当に楽しく満たされたひと時を過ごせる時間となります。そんな時間が年にあと何回かあったらどんなに素晴らしいことでしょう。

今日の日本人にとって大事なことは、もっと己の魅力の本質を知り、自分らしさを楽しむことなのだという確信を新たにしつつ、

大好きな正月の錦玉子を今はひたすら心待ちにしいる毎日です。

 

 

 

 

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