【進化せよ、日本】

〜代表・緒方義志の言いたい放題 12〜

 

 

最低の茶番劇」

 

6月になるとジューンブライドという言葉をよく耳にします。

この概念は、もちろん、ヨーロッパから入ってきて日本に浸透したものです。

確かにヨーロッパでは、昔からの言い伝えや気候上の理由から6月に

結婚式を挙げることは素敵なことだとされていますが、わが国日本においては

6月と言えば梅雨。最も避けたい時期のはずです。そんな6月という時期を

ここまで強烈に結婚式と結びつけたブライダル業界は、なかなかの商売上手だと

褒めるべきでしょう。おそらくは、閑散期の暇を打開するために、

業界の誰かしらがこのようなヨーロッパの風習を見つけてきてうまく

利用したのでしょうが、そんなことくらいは賢い日本の消費者は容易に

想像がつきます。結果としては、ジューンブライドという言葉と概念は、

わが国でもすっかり定着するようになりましたが、この言葉を押し戴いて

わざわざこの梅雨の時期に結婚式を挙げようとする日本人は

そう滅多にいないはずです。

 

こういう冷静で合理的なところがある反面、日本人の結婚式に対する

価値観は、その根幹をブライダル業界によって大きく歪められています。

リクルートが実施している「ゼクシィ結婚総合意識調査2006」によると、

わが国における結婚式の挙式形態の比率は、キリスト教式が65%、

神前式が16%、人前式が16%だそうです。要するに、100組の夫婦が

いるとすると、そのうちの65組がキリスト教式で結婚式を挙げていると

いうことです。しかし、わが国のキリスト教徒の割合が全人口の1%に

満たないことを鑑みると、65組(新郎新婦併せて130人)のうち、

キリスト教徒は多くても1人しかいないという計算になります。残りの

129人はキリスト教徒ではないのです。この実態は極めて異様なことです。

 

キリスト教式の結婚式の目的は、神の前で夫婦の契約を交わし、

神に対し永遠の愛を誓うことです。この行為は、真のキリスト教徒にとっては

非常に重く意味深いものです。しかし、そうでない人たちにとって、

信じてもいない神の前で永遠の愛を「誓う」ということにどういう

精神的意味があるのでしょうか。そもそも、「誓う」対象を心の中に

持っていない状態で、いったい誰に何を誓うというのでしょうか。

首を傾げたいことはそれだけではありません。一般的に、キリスト教の

結婚式においては結婚誓約書へ署名をしますが、こんなものも結局は

ただのパフォーマンスに過ぎません。挙式を行う教会や式場によっては、

ただ単にデザイン性を重視して、この誓約書が英語やギリシャ語などの

外国語で書かれているものもあるようですが、内容も理解できない誓約書に

署名をするなどということは、常識では考えられない間抜けな行為です。

 

今までに私を結婚式に招待してくれた友人や親類には大変申し訳ないと

思いますが、私は何度となくそのような結婚式に出席させていただき、

その都度とても複雑な心地の悪さを味わいました。それは、自分が

大好きな友人や親類の結婚を心の底からおめでたいと思う慶びの気持ちとは

裏腹に、そんな彼らが私の目の前で繰り広げる最低の茶番劇の主役であることが

悔しくて仕方がないという思いです。自分が愛し尊敬する仲間や親類たちの

そんな無様な姿は、できることなら見たくはありません。

 

私がキリスト教式の結婚式を茶番劇と呼ぶのは、新郎新婦だけでなく出席者

全員がその劇に参加していることにあります。まずは、「バージンロード」を

新婦と共に歩いて入場する父親。私はその見るに絶えない姿を見るにつけ、

毎度の事ながらついそこから視線を外したくなる痛々しさを覚えてしまいます。

中にはバージンロードを娘と歩くことを夢見るロマンチックな父親も

いるようですが、大抵の父親は捉えられた宇宙人のようにその環境に

全く溶け込んでいません。それもそのはずです。馴染みのない宗教の様式に

沿って動くよう、儀式の始まる数十分前に「こう動け」と指示を受け、

その通りに役をこなしているだけなのですから。それから、明らかに

丸暗記をしたと思われる不自然な日本語で強引に式を進行する外国人の

神父や牧師たち。中には本当の聖職者ではない「宣教師もどき」の外国人を

使う式場もあるようで、教会婚なるものがいかに見てくれの演出に

こだわっているかが伺えます。

 

さらに異様なのが、全員で歌う賛美歌。私も「郷に入りては」の精神で

歌詞を見ながら歌うようにしていますが、会場のほとんどがキリスト教徒で

ないのに、全員でイエスを賛美し、意味も分からずに「アーメン」を

連呼する様は不気味としか言いようがありません。その他にも、

指輪の交換や誓いの接吻、ブーケトスにライスシャワーと、参加者は

意味も分からずにただひたすらと教会式の段取りをこなしていきます。

指輪の交換や誓いの接吻の場面などでは、感動して涙を流す参列者なども

いますが、こういう「意味」の通わない極めて表面的な挙式によく感動できる

ものだと、私はこれらエキストラたちの役への没頭ぶりに

ただひたすら感心するばかりです。

 

「どんな儀式も全ての意味を理解してやっている人などそう滅多に

いるものではない。儀式とはそういうものだ」と反論する人が

いるかもしれません。確かに、「伝統的な儀式」というものは、

意外とそんなものです。自分の祖父母も両親もそうしてきたから、

意味はよく分からないけれど自分もそうする。伝統や慣習とはえてして

そんなものだと思います。しかし、キリスト教式の結婚式は

日本の伝統ではありません。伝統や慣習に無かったことを敢えてやろうと

するからには、そこには何かしらの意味や意図があるはずです。

いや、それなりの意味や意図があるべきではないかというのが私の考えです。

私は、伝統や慣習は何でもかんでも守り通せばよいとは思っていませんが、

だからと言って理由もなく放棄すべきものではないとも考えます。

 

戦後の日本にとって、それは特に重要なことです。今日の日本は、

明治維新の脱亜入欧思想と戦後の占領政策、さらには高度経済成長期の

欧米至上主義の洗礼を受け、その文化的個性を自ら薄め続けてきています。

そんな日本だからこそ、意地を張ってでも自分達の様式を貫き通すべきなのでは

ないでしょうか。仮に、その様式が格好悪いと思うのであれば、

自らが心の底から「かっこいい」と思えるような様式に進化させていくべきです。

「なんとなくかっこいいからキリスト教式で結婚式をやる」とか

「ウェディングドレスが着たいから教会で式を挙げる」などという理由は、

伝統を放棄する動機としてはあまりにも軽薄すぎます。そんな意識しか

持たず表面の形式だけを洋風に演出したところで、それを美しいと

思い込んでいるのは当の本人たちだけで、それを傍から見たら

滑稽な醜悪以外の何者でもありません。意味も分からず人の行いを

真似ることを猿真似と言うのであれば、こんな典型的な猿真似文化は

世界中どこを見渡しても他に見当たらないのではないでしょうか。

 

日本の結婚式がここまで空っぽになってしまったのは、先人達個人の

意識の問題でもありますが、やはり結婚式という一大イベントの

企画・演出・運営を手掛ける結婚式産業、すなわち供給側の責任だと

私は考えます。日本の消費者の宗教的中立性につけ込み、キリスト教を

ファッションの要素として利用し市場を扇動するブライダル業界と

それに便乗するアパレル業界。彼らは文化の担い手たる責務を完全に放棄して、

極めて表層的なかっこよさとそれが生み出す儲けを追及するばかりです。

しかし、彼らにはそんな認識は微塵もなく、自分たちがプロデュースする

お洒落な結婚式にただひたすらご満悦のようです。そんな業界の

意識水準を高めてやるためには、私たち利用者がより高い文化提案を

要求するようなならなくて始まりません。彼らの殆どは自分たちが

日本中に撒き散らしている「空虚な結婚式」の是非についてなどは

恐らく考えたこともなく、文化の在り方について思考するという意識も

鼻からないのですから。もし、そのような意識が業界に少しでもあるのなら、

こんなお寒い結婚式事情には決してならなかったのではないでしょうか。

 

日本人ならば、本当の美しさとはその精神の豊かさから湧き出てくるものだと

いうことを、誰もが知っているはずです。本当に美しい結婚式とは、

新郎新婦と参列者全員の精神が伝統と慣習の力によって一体となり、

さらには時空を超えて先祖とも一体となるような優しく暖かく自然で

朗らかな空気を生み出すものでなければならないと思います。

よその文化から借りてきた衣装と様式を以てそのような悠久の精神性を

伴う儀式を行うことは、はっきり言って不可能です。キリスト教徒でも

何でもない日本人が西洋のウェディングドレスを着て教会で結婚式を

行うのは、マサイ族が高砂族の衣装と方法で結婚の儀式を挙げるくらい

ぎこちないことだということに私達はいい加減に気づくべきです。

憧れのドレスとタキシードを着て新郎新婦が悦に入っていれば

それでよいなどという結婚式ごっこは、正直もううんざりです。

 

では、そもそも日本らしい結婚式とはいったいどのようなものなのでしょう。

神前式の結婚式が一般に普及したのは明治33年、大正天皇が皇太子の時に

執り行った挙式からだと言われていますが、だとすると然程の歴史はないことに

なります。実は、この挙式形態は当時の皇室が日本的な結婚式の在り方を

示したひとつのかたちでしかないのです。日本の結婚式は、平安、鎌倉、

室町、江戸、明治と時代を追うごとに当然のことながら変遷を遂げているため、

端的に説明をすることは困難です。だからこそ、皇室がその在り方を

自ら具体的に提示してくれたのだとも言えます。それはまさに、

「日本人の結婚式は日本人が自分たちで作っていくべきものなのだ」という

意思の表れであり、今日に生きる私たちも国民の課題として

「美しい日本の結婚式」の在り方について積極的に考えていくべきです。

 

神道の宗教形式を介在させるかどうかはともかく、少なくとも新郎新婦の

衣装においては、日本は貫き通すべきものを持っています。

もし今日、「ウェディングドレスは可愛いけれど、白無垢に角隠しは

格好悪いから嫌だ」と思われている現状があるのだとすれば、

それは和装業界の怠慢と安易な諦めによるものに他なりません。

桂由美は、まだウェディングドレスが日本に普及していない時代から

その素晴らしさを発信し続け、次第に業界を巻き込んで現在の巨大な市場を

作り上げる火付け役となりました。今まで馴染みのなかったウェディングドレスが

1世代の期間でこれほどまで強烈に文化として浸透したのですから、

歴史と伝統というアドバンテージを持った和装が同じことをできないわけが

ないのです。今からでも全く遅くはありません。日本人としての本当のかっこよさ、

本当の美しさを私達の結婚式においても追及していこうではありませんか。

 

 

 

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