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【進化せよ、日本】
〜代表・緒方義志の言いたい放題18〜
「大人としての自覚」
今やクリスマスの経済波及効果は1兆円を超えると言われています。しかし、これはあくまでも、
いわゆる「クリスマスプレゼント」に出費される金額を算出した数字で、それ以外のクリスマス関連の需要から
発生する消費は含まれていないそうです。例えば、クリスマスツリーやその飾り付けの小物に始まり、
ケーキやお菓子、家庭で特別につくる料理の材料はもとより、街中の電飾やクリスマス用の包装資材、
人気のアーティストが歌うクリスマスソングのCDやこの時とばかりにチケットを乱売するディナーショーに至るまで。
例を挙げればきりがありませんが、これら消費者と企業のクリスマス関連の消費をひとまとめに考えると、
その経済波及効果は1兆円をはるかに上回る額になるとのこと。今やクリスマスは産業界が繁栄するために
決して無視してはならない確実な効果が期待できる儲けの仕掛けであって、日本中のありとあらゆる企業が
この経済効果の恩恵を授かろうと、さらなる消費拡大の可能性を常に見出そうとしています。
こうして、クリスマスという私達日本人にとっては特に精神的意味を持たない行事で1兆円以上の
消費活動を「楽しいから」という理由だけで行い、地球環境のエントロピーを私達はこの時期に一気に
増大させています。企業もメディアも消費者も、皆がその精神不在の宗教行事を手放しに喜んで、
やれツリーだおもちゃだ指輪だと、わざわざこのクリスマスのためにモノを生産し消費するということを
率先して行いながら、その一方でメディアは環境問題の深刻さを視聴者に訴えかけ、企業は
「環境に優しい会社」であることを消費者に喧伝し、消費者は「今私達が環境に対してできることは
何か」などと本気か冗談か分からない議論を交わし、さらにはその子供達に環境問題の
大切さを偉そうに説いています。それが今の自分たちであると私は認識しています。
クリスマスという国民総参加型の行事がほとんど無意識に行っているこのマッチポンプ的な行為は環境問題に
関わることだけではなく、子供達への教育にも浅からぬ関わりを持っていると私は考えます。少年犯罪の増加や
一般常識と学力の低下、さらにはニートの急増など、「自分さえ良ければいい」とか「今さえ楽しければ自分の
将来のことや社会との関わり方などはあまり重要でない」といった、子供達の社会性の欠如が昨今深刻な問題として
大人たちの話題に上がっています。しかし、「楽しかったら何でもあり」という刹那的で無思考な行為を率先して
行ってきたのは私たち大人と社会環境そのものであり、その言動が見事に凝縮されているのが、今日の日本の
クリスマスだと私には思えてならないのです。そんな無思考でふわふわとした大人と社会に育てられた子供に、
私達はいったいどの面を下げて社会人としての自覚や思慮深さを期待するというのでしょうか。
今年一年を振り返ると、政治家の質の劣化、官僚の腐敗、経済界の良識の低下、教育の衰退、役人の
使命感の減退など、特に日本の指導者層にその資質や使命感が欠如しているということが多く取り沙汰された
一年だったという印象が強く残ります。これに対して多くの国民が憤りや不安を感じ、この現状をただひたすらに
嘆きながらも、恐らく彼らの多くが「自分が何を言っても国家や政府は変わらないだろう」と諦めているような空気を
感じました。なぜかと言えば、事の本質は法律や制度や体制の問題ではなく、現在の指導者層における志の
多寡の問題であるということを国民が痛感してしまったからではないかと思うのです。
しかし、もしそれが問題の本質であるとするならば、誰にも増して私達ひとりひとりの意識と行動が将来の鍵を
握っているということを私達は強く認識すべきです。なぜならば、今の指導者層に高い志が足りないと思うのであれば、
まずは私達がそれに引きずられるようなことがあっては決してならず、更には次の指導者をより高い理想で
育成していく責任があるからです。もう既にいい歳になってしまった大人たちの意識を根底から変えることは
不可能です。もし仮に、今の指導者層の多くにより良い社会を作るという志が十分に足りていないのだとすれば、
それはその指導者達を育成してきた社会や大人たちに何かしらの問題があったとのだと私は考えます。
要するに、いつの時代においても、将来の社会を引っ張っていく大人たちを育てるのは、子供を育成する
土壌としての社会環境とその生き方の手本となるべき大人たちの責任であるということです。
そう考えた時に、今の私達にできることは何なのでしょうか。それは、次世代の良識・分別・自覚を育てるということに
尽きるのではないでしょうか。今年一年、新聞やニュースを騒がせた政財界の不祥事の全てに共通することは、大人として、
社会人として持つべき良識・分別・自覚の欠如であったと言い切ることができます。問題の本質はそれ以上でも
それ以下でもなく、ただそれだけのことなのです。辞書によると、「良識」とは、物事の健全な考え方。「分別」とは、
物事の善悪・損得などをよく考えること。「自覚」とは、自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などを
はっきり知ること。この社会人として必要な三つの意識と感覚はどれも意味が異なりますが、いずれにも共通することは、
常に自分の言動が理由、動機、判断を伴っているかどうかということがその程度の高低を決定付けるということです。
これらの感覚が備わってはじめて、私達は「社会を作る」という意識や行為を次の世代に教えていくことができるように
なるのではないでしょうか。子供達に教えるということは、単に言って聞かせるということではありません。子供に対する
教育とは、親が模範となり正しい手本を示す行為だと私は考えます。人間以外の動物は皆そうして子供に
正しい生き方を教えるのです。仮に、親が口ではああしろこうしろと子どもに理想の生き様を説いたところで、
当の本人がそれを実践していなかったら、子供は瞬時にそれが空論であることを見抜きます。自分にとって
絶対的存在の親がそれをできていないのであれば、自分にできるわけがない、または親がそうしていないのだから、
自分もそうする必要がない、そう理解するはずです。子供は生き方の標準を親と社会に見出して成長するのですから。
もし本当に次の世代をしっかりと育てて行こうと考えるのであれば、まずは私達が自らの良識・分別・自覚を改めて問い質すべき
でしょう。私達はより良い社会を作るために、思慮のある大人として将来の指導者予備軍、すなわち子供たちにその手本を
示すことができているのか。大人とは、楽しいかどうかということよりももっと大事な未来の社会や子供たちのことを考えて
行動する生き物なのだということを、私達は静かに背中で語る存在にならなければなりません。そんなことすら放棄して、
今日の日本の全ての歪みを指導者層のせいにしていたのでは、日本が良い方向に進化することなど夢のまた夢です。
もし、今私達が、「日本がどこかおかしい」と感じ、「自分も何か行動を起こしたい」と思うのであれば、何かをやるという
積極的な行為も大切ですが、それ以上に「くだらないことは敢えてやらない」という自制的な行為とそれを支える
思慮深さこそが重要なのではないかと思うのです。その手始めとして、全人口の99%にあたるキリスト教徒ではない
日本人は、まずは精神不在の宗教行事、クリスマスを敢えて放棄することを私は強く提案します。その意義は
大変大きいもので、意味・内容のない宗教行事を何のためらいもなく行うような無思考性を次の世代に伝えないためです。
社会の良識・分別・自覚の欠如は、このような思考が停止した精神状態に起因するのだと私は思います。
一体いかなる言葉をもってすれば日本人はこの痛々しさと格好悪さに気付くのでしょうか。そして、そのような日本人の
品格のなさを次世代に伝え続けることが教育上どれだけ深刻な弱みとなっているかを理解できるのでしょうか。
そんな私達消費者の問題意識の希薄さを知って知らずか、この時期になると産業界はここぞとばかりに私達の消費を
煽ってきます。その煽りに対して気持ち良い程に呼応する「打てば響く消費者達」。しかし、彼らが打っても私達が
響かなければ、この関係は成立しません。この関係を断ち切る主導権を握っているのは、私達消費者なのです。
産業界が誘導する「儲かる文化のかたち」を彼らの思惑通りに受け入れるかどうかの判断は常に私達に
委ねられているということに、この時期少しでも思いを巡らすことは決して時間の無駄ではないと私は考えます。
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