【進化せよ、日本】 

〜代表・緒方義志の言いたい放題24〜

 

 

 

「伝統工芸という名のレッテル」

 

「伝統工芸」という言葉があります。基本的にこの言葉からは肯定的で

うやうやしい意味しか連想されません。この言葉からは文化的、歴史的、

保守的な印象を受けるのは勿論のこと、誠実、堅実、勤勉、丁寧、真摯、

徹底、根気、努力といった日本の美徳を代表する性質が多分に連想され、

真面目な匠がその道ひと筋に優れた技術を磨き上げて生み出す重い価値を

感じさせられます。しかし、これらの素晴らしい性格も、その呼称が包含する

別次元の示唆が消費者の物欲を萎えさせてしまう妖力を持っているような

気がしてなりません。それは、「保存の義務」という何となく不憫で

消費者の良心に訴えかける懇願にも似た暗示です。

 

伝統工芸師たちは自らの生業を伝統工芸と呼ばれることに果たして

心底から喜びを感じているのだろうかと私はしばしば考えることがあります。

多くの伝統工芸品は経済産業省が一定の基準のもとに認定し付与する

「伝統マーク」なるものをありがたく戴いて、商品の付加価値を高めるための

強力な太鼓判としてあらゆる商品や作品に添付しています。たしかに、

これはお上から賜る品質保証であり、商品の技術的、文化的価値を説得する

上では有効で心強い、水戸黄門の印籠のようなものです。しかし、国が認めた

伝統工芸とは、国が保護してでも保存する価値のある産業であるという

意味を持つ反面、「この産業はもはや時代遅れで、国が保護をしてあげないと

存続が危うい産業です」というレッテルを貼られたような印象が否めません。

 

かつては日常生活の主役だったものたち、誰からも存在そのものが当たり前だと

思われていたものたち、または贅沢の極みの象徴として庶民の憧れの対象と

なっていたものたち。いずれも人々から必要とされ、求められていたものだからこそ、

日本の生活文化に根付き、産業が隆盛を極め、日本文化の一部となったのです。

しかし、時代は変わり、私達の生活が変わり、消費の需要も大きく変わりました。

すると、それらの産業はかつてほど必要とされなくなり、いつしか消費者から

強くは求められなくなってしまったのです。そんなことに思いを巡らすと、

平家物語のあの有名な冒頭の一説を思い出します。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。

たけき者も遂には滅びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。」

 

これはひとつの真理です。私たちの経済活動になぞらえて言うならば、

どんな商品にも市場における寿命というものがあります。マーケティングで言う

製品のライフサイクルというものです。鉄瓶や曲わっぱ、簾(すだれ)や

提灯(ちょうちん)などの生活日用品はより便利なものが登場することで、

その需要はいとも簡単に失墜します。柘植(つげ)の櫛(くし)や鼈甲(べっこう)の

簪(かんざし)、西陣織の帯や京友禅の着物などの嗜好品は、

時代の流行が変わればころりと他のものにとって変わられます。

それが、流通であり産業であり商売の常とも言えるのです。

 

この市場経済の真理に淘汰されないために、モノを作って売るということを

生業とする者たちは、時代の流れに取り残されぬように絶えず進化し、

消費者の新しいものへの欲求と更なる刺激への渇望を満たすために

弛まぬ企画開発を繰り返していく必要があるのです。これは伝統的な産業においても

例外なく言えることだと思います。変わらぬことが「伝統」工芸の存在価値である

という人もいるでしょう。しかし、消費者の生活と嗜好が大きく変わっているのに、

何百年も前の日用品や嗜好品を変わらぬ気持ちで愛して欲しいなどという

期待と注文は、やはり相当な無理があると言わざるを得ません。

 

鉄瓶や曲げわっぱなどの道具類は、かつてはその用途における利便性、

機能性において他の何よりも勝っていたから一般の家庭でも需要があったわけで、

消費者は何もこれらが伝統工芸品だから買っていたわけではありません。

これらの道具が飛ぶように売れていた時代はこうした道具達が最先端だったから

売れていたのです。江戸時代の人たちがどうして好き好んで鎌倉時代の利便性に

劣る道具を使うでしょうか。平成の現代、同じ用途に使用できる便利な道具は

安価でたくさん販売されていますが、今日の主婦達がそれらのより便利で安価な

道具を選ぶのは当然の判断で、伝統工芸品を率先して選ばない主婦達は

日本の職人達を大事にしていないなどという言い分は全くもってお門違いです。

 

また、西陣織の帯や京友禅の着物の市場が賑わっていた時代は、これらが

当時とびきりお洒落でかっこいいと思われていたからこそ、庶民の憧れの的だった

わけです。彼らの購入の動機は、今日の若者がエルメスやルイヴィトンの鞄を

求める感覚と殆ど同じだったのではないかと私は想像します。品質が良いとか

デザインが美しいとか、具体的な理由を挙げればいつくもあるでしょうが、彼らの

消費欲を根本から突き動かす力というのは、それらが流行っているからです。

ことファッション関連の商品に関して言えば、これが否定せざるを得ない現実であって、

西陣織の帯や友禅の着物にも同様に当てはまることです。

 

かつて流行っていたものが次第に流行らなくなってしまった状況において、

「伝統工芸」の印籠をかざしたところで、気分と感性で動く消費者の心はちっとも

動かないどころか、この最終手段を取ってしまうことにより、かつてはファッションだった

憧れの商品がファッションでなくなってしまうのです。結果、ファッション市場において

狙うべき理想の顧客層ではなく、まったく別の興味や解釈で価値を見出した

想定外の顧客層が購入するに至ります。

 

こうして日本文化の一部としての地位、すなわち伝統工芸の称号を勝ち取ることが

できた産業は、「生きた歴史」として可能な限り生き続けることを認められ、

支援される存在に生まれ変わり、その代償として、一般の商品が生き続けるために

本能的に行う「進化」という発達・発展のプロセスから自らを隔絶してしまうのです。

かつて京友禅も西陣織も、大島紬も本場黄八丈も庶民の憧れでした。

それらは今で言うラグジュアリーの代名詞であり、これらの商売に携わって

一財産を築き派手な生活をしていた豪商たちが実際にいたのです。私は時折、

そんな時代の再来を夢想します。決して消費者の良心と情によって気を使われ、

大事にされている不憫でか弱い産業ではなく、従事する人たちが成功者の

象徴として憧れられるような伝統産業の再来を。

 

それを現実のものとするために決してやるべきでないことは、「後継者がいなくて

かわいそう」とか「職人の高齢化が進んで大変そう」といった消費者の同情や

いたわりを喚起する、およそファッションの人気獲得の方程式からかけ離れた

イメージづけによる消費者の善意と良識を問うような空気を作ることです。

非生産的であるが故の商品の希少性を訴えるのはファッションにおいては

立派な戦略ですが、悲壮感を漂わせるのは効果的な戦略とは言えません。

ファッションは後にも先にもかっこよくなければいけないのです。

 

今、伝統工芸に求められている戦略は、いかに「かっこいい」と消費者に思わせるか

の一点に尽きます。もし国と地場産業の双方が伝統工芸を本当に生きた

工芸産業として活性化させたいと心から願うのであれば、しっかりと国家予算を

有効に使って日本の伝統工芸のかっこよさをプロデュースしPRすべきです。

この仕掛けの中身が重要だと私は強く感じています。はっきり言って陳腐な物産展や

伝統工芸展の開催などは期待した効果をなかなか得にくいどころか、

むしろ逆効果と言っても言い過ぎではありません。もっと「かっこいい」という

反応を引き出せる仕掛けは他にたくさんあるはずです。その仕掛けを考える前に、

まず関係者は、「伝統工芸」という印籠を闇雲にかざして見せる姿勢を

良しとしない意識と精神を持つところから始めるべきでしょう。

そういう強気な姿勢こそが「かっこよさ」を演出するのです。

 

 

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