【進化せよ、日本】

〜代表・緒方義志の言いたい放題30〜

 

 

「日本よ、出し惜しみするなかれ」

 

日本人は、謙虚を美徳とする国民だからかどうなのかはわかりませんが、ことさらに

「これ、かっこいいだろう」とか「これ、すごくいいから試してみなよ」という姿勢で外国に

自国の文化を「お勧めする」という活動を積極的にはしてきませんでした。一方で、

日本人は好奇心が旺盛で、新しいものや舶来のものを好む習性が強いため、

鎖国が解かれてからというものは、外国の文化をもらったり、真似したり、取りに行ったり、

盗んだりと、完全に受け入れるだけの立場に徹しています。お陰で、日本は外国から

たくさんの文化を輸入し、そこから多くを得、多くを学び、多くの刺激と影響を受けて

きました。その代償として、日本文化はその核の部分を相当に萎ませてしまうことに

なりましたが、異国の文化に対しかなりの共感を持って愛でることができるようになったことは

とても良いことだと考えます。それらの文化を発信した国々は、別にそんなつもりで

日本に文化発信をしたわけではないでしょうが、結果的にはそういう機会を

日本は外国文化から与えられたということは受け入れるべき事実です。

 

一方、私達が文化交流を盛んに行ってきた諸外国、とりわけアメリカやヨーロッパを

はじめとする西側先進諸国の日本文化に対する価値観がどのような変遷をたどっているかを

考えてみると、彼らの生活文化にはさほど日本文化は浸透していません。せいぜい

寿司を美味しいと思える味覚を持てるようになったことと日本の漫画やアニメを見て

面白いと思える感覚が醸成されたことくらいでしょうか。あとは、ほとんどと言ってよい程に

西側先進諸国の文化の進化発展の軌跡は、基本的には自給自足なのです。

 

自分達の文化に自信と誇りを持って、その流儀の枠から出ずに文明と共に進化発展して

いくという姿勢は、私達日本人から見ると頑固さと自己愛に満ちていて何となく

格好良いものです。風俗や価値観の軸がしっかりしているというのは、民族規模で

考えるとそれはひとつの徳というべきものなのかもしれません。しかし、裏を返せば、

その民族は他民族の価値観を理解していない(または、理解できない)分、感性の巾が

狭いと考えることもできます。それは、彼らにとっては痛くも痒くもないことで、

興味のないものの価値をわざわざ自分から分かりに行く必要などないと彼らは

言うかもしれません。しかし、せっかくこの広い地球に生まれてきたからには、

それこそマルコ・ポーロよろしく、もっと広く世界を見渡し、多くのことを見聞し体験し、

そこから得る喜びや感動を自分の人生の糧や刺激に変えていくということに無駄や

無意味さを感じはしないはずです。美味しいと思える食べ物が一つしかないよりは

三つあった方が人生は楽しいし、好きだと思える曲も多ければ多いほど心の躍動の

種類と回数が増えるわけですから、そう望まない人はよっぽどの偏屈者でない限り

この世に存在しないと言って良いでしょう。

 

要するに、食わず嫌いや無知による無関心は人生における感動の機会を制限してしまう

ということです。私は、高校一年生くらいまで、寿司という料理に何の魅力も

感じていませんでした。何故と言えば、刺身が嫌いだったからです。こんな気持ちの

悪いものをみんなよく食えるものだと、私は周囲の人たちの食の悪趣味を半ば

蔑んだ目で見ていました。父や母から「美味しいから食ってみろ」と何度も

勧められましたが、頑なにそれを拒み、妹が父の土産の鯖寿司に喜んでいる感覚も

全く理解できませんでした。私はこんなものを一生食わないでよいと思っていましたし、

また、寿司が気持ち悪いと思える自分が好きでもありました。別に寿司を憎んでいたわけでも

何でもないのですが、できることなら一生寿司を嫌いな人間でいたいと思っていたくらいです。

だから、たまにすし屋へ連れて行かれても頑固に玉子とかっぱ巻きとかんぴょう巻きだけを食し、

私は頑なに自分の美学を守り抜いていました。サッカー部の合宿などで、夕飯に

刺身が出たりすると「俺、刺身が食えないからやるよ」と言って後輩に刺身をあげては、

その行為に我ながらの洗練を見出していたのです。

 

ところが、高校生のある日、父がいつもとは違う、明らかにいつもより高級な店構えの

すし屋に私達家族を連れて行ってくれました。そこで出された穴子に感動し、

その勢いに乗せられてネギトロを食べたらこれも旨い。ネギトロが旨いと思うなら

中トロも旨いと言われ、その時点でもはや殆ど完全に「すし=旨い」の暗示に

かかっていた私は、片っ端から出された寿司を口にし、その全ての旨さに感動したのでした。

この体験で私の食の感性がまるで宇宙のように広がったのです。

 

私の味覚は、寿司によって本当に覚醒されたと思います。どうしてこんな素晴らしい料理を

頑なにで拒んできたのでしょうか。今まで玉子とかっぱとかんぴょうだけしか食べないことで、

私はどれだけの喜びの瞬間を自ら放棄してきたのでしょうか。この機会損失の無念さは、

「もったいない」という言葉でしか表現することができません。

食わず嫌いとは、この「もったいない」の温床だったのです。

 

かつてアメリカ人もヨーロッパ人も、寿司に対する価値観は中学時分の私と似たり寄ったり

でした。しかし、この寿司を理解しない人々に、日本人は、これだけは何故か積極的に

勧めたのです。「こいつは旨いから食ってみな!」と言ってニューヨークやロサンジェルス、

ロンドンやパリに乗り込んでいった板前達は、日本人にしてはなかなかおせっかいな人たちです。

彼らに日本人の美徳とするところの謙虚さがあったかなかったかはどうでもいいとして、しかし、

その結果、彼らは欧米諸国の人々の味覚の結界を破壊し、その感性の宇宙を広げたのです。

この行為をありがたいと思いこそすれ「おせっかい」だと言って咎める者は、今となってはいないでしょう。

やはり、良いものを「これいいよ」と言って勧めてあげることは、相手の価値観の巾を広げて

あげることであり、感性の許容量を大きくしてあげることである故、人の心を

より豊かにする行為なのだと、この一事から察することができます。

 

しかし、日本人が外国に教えてあげた凄い文化というのは、後にも先にもこの寿司くらいでは

ないでしょうか。まあ、その他に、酒や焼酎、照り焼きや天ぷらなど、料理全般に関しては

結構紹介しているかもしれません。しかし、それ以外の文化についてははどうでしょう。

ほとんど見せてあげていないような気がします。最近の漫画やアニメに関しては、

どちらかというと、彼らが日本で面白いものを見つけて、彼らの自助努力によりそれを

持って帰ったと言った方が正確でしょう。となると、日本人が外国で積極的に紹介して

あげようと考えて持って行った文化は、実はまだほんの一握りでしかないのです。

 

逆に、アメリカ人などは、彼らの過剰な自意識もあいまって、日本やその他の国に良いものや

面白いものをどんどん教えていきます。ジーンズにハンバーガーにジャズに映画にディスコに

クリスマス。日本はいろんなことやものを教えてもらい、それによって楽しいことがたくさん

増えました。日本がアメリカの文化を理解し、それに共感し好意を抱いたことで、

日本は多くのアメリカ企業にとっての優良な市場にもなりました。しかし、日本がアメリカに

あげた日本文化は料理だけです。だから、日本にとってのアメリカは、ほとんど機械産業の

市場としての位置づけしかなく、文化(ソフト)産業の市場としてはまだまだ成熟してはいないのです。

 

日本人は、日本の文化は深くて広くて面白いと自負しているわりには、あまりそれを世界に

見せてあげようとはしていません。日本人は実は秘密主義者なのでしょうか。それとも

単にケチなのでしょうか。自分達がこんなにも楽しんでいる日本の音楽やファッション、

文学や芸能、こんなにも素晴らしいと感じる生活様式や日用品の数々があるにも関わらず、

それを教えてあげようとしないのですから。彼らがそれらに興味を抱き、さらにそこに好意や

共感が生まれれば、世界はより多くの日本企業にとっての市場にもなるというのに。

 

特に、欧米諸国はまだまだ日本のことを知りません。凄い日本、面白い日本を知らないのです。

彼らは、自分達の文化が世界に浸透していくのを見て、世界はグローバルになったと悦に

入っているかもしれませんが、彼らは発信側に徹しているが故に、他文化の刺激を実は

あまり受けていません。地球には多くの国があり、様々な文化が存在するということを最初に

発見した民族にも関わらず、その好奇心旺盛な彼らの異文化との関わり方というのは、

実にもったいないあり方で終わってしまっていることが多いのです。その責任の半分は、

彼らの食わず嫌いの性格と、単に「知らないが故に関心がない」ということにあるのかも

しれませんが、残りの半分は、発信する側の私達に良い意味でのおせっかいが

足りないからだと思うのです。あのすし屋の板前達が数十年前に外国に持って行った

絶対的な自信に裏づけされた純粋なおせっかい精神が、です。

 

日本人というのは、よくもまあ、こんなにも難しい領域から自分達の文化を紹介しようと

したものだと、その無謀さに脱帽せざるを得ませんが(これと比べれば、彼らに地下足袋を

かっこいいと思わせることなどは遥かに簡単なはず)、現に彼らは、寿司を欧米諸国の人々に

洗練された料理として認識させるという、見事なまでのパラドックス転換をやってのけたのです。

そして、そのおせっかいは、欧米諸国の人々に自分達の文化だけでは経験することのできない

喜びを与えました。この行為は、どんな有能な外交官にも成し得ない極めて効果的な

外交活動の一つだと言っても決して言い過ぎではありません。そして、今日の日本には、

外国の人たちにまだ見ぬ喜びを与え得るネタがまだたくさんあるはずです。そんなネタを

出し惜しみするなんて、地球規模で考えた時に「もったいない」としか言いようがありません。

世界の人々に、もっと日本の「凄い」を教えてあげようじゃありませんか。

情けは人の為ならず、の精神が世界を真のグローバルに変えるのです。

 

 

 

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