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__c0__ 様

 

紅葉もまだ終わっていないというのに、早くも冬本番の寒さを感じる今日この頃、

これからもっと寒くなるかと思うとぞっとしますね。

義志では、そんな寒さを気合いで乗り切ろうと言いつつも、

しっかりとあたたかい羽織をご用意したりもしています。

今年も残すところあと一ヶ月と僅かですが、

年越しそばをすするひと時まで、一気に全力で駆け抜けましょう。

 


 
■■新作入荷情報■■
 
Tシャツ型第15
 
価格:9,870円(税込) 色:白、墨黒 サイズ:小、中、大
 
右前で前身頃が重なる直球勝負な日本的Tシャツのかたち。
左右の身頃が重なりその縁が交差することにより生まれる重層的な襟のデザインは
丸首やVネックなどでは出すことができない独特な印象を作り出す。
 
 
Tシャツ型第48「二本波」
価格:9,345円(税込) 色:若芽、黒 サイズ:中、大
 
「冬でも半袖主義」の人にはおすすめの、柔らかな極小裏毛を使用した肉厚の
Vネックカットソー。程よく深い鉤型の襟の先端は、着物の前合わせを模して
右前にリブを重ね合わせているのが特徴。胸部に大きく配した「二本波」の柄は、
大きく逞しい胸板を演出する義志ならではの視覚効果を考えたデザインとなっている。
 
 
 Tシャツ型第49「剥がれ亀甲」
価格:12,600円(税込) 色:若芽、黒 サイズ:小、中、大
 
長いリブが作り出す緩急ある袖のシルエットが特徴的な肉厚素材のカットソー。
背中に敷き詰めた亀甲柄が剥がれ落ちるように描かれた「剥がれ亀甲」模様を発砲プリントで
立体的に表現。地肌に一枚で着るも良し、重ねて着るも良しの使い勝手の良い一枚。
 
 
価格:13,440円(税込) 色:生成、黒 サイズ:小、中、大
 
重厚感のあるハニカムメッシュ素材を使用した防寒性と通気性を兼ね備えた長袖カットソー。
一見無骨で硬派なつくりに見えるが、ぴったりとしたシルエットと大きく開いた襟が
野性的な男の色気を計算高く演出している。袖には、肩から肘にかけて「だんだら引き」の
刺繍が施され、質実剛健な本体に程良い装飾性と緊張感が与えられている。
 
 
価格:50,400円(税込) 色:黒 サイズ:小、中、大
 
高い防水性と保温性を備えたハイテク素材を使用した重厚感たっぷりの防寒羽織。
胸部に装飾として贅沢に施された市村藤斉製の真田紐が最大の特徴で、
広めにデザインされたアームホールと相まって、がっしりと広く逞しい胸板を演出する。
さらには、首が完全に隠れるフード内臓の高い襟が威厳に満ちた風貌を作り出し、
その名にふさわしい強烈な存在感の一着に仕上がった。通常より大き目のつくりは
中に他のアウターが着られるよう設計されており、袖口にかけて細くなる袖は、
風の進入を抑える機能を備えるなど、徹底して防寒を意識した機能が満載されている。
 
 
価格:71,400円(税込) 色:黒 サイズ:小、中、大
 
世のダウンジャケットが完全に諦めていた「鋭いシルエット」を徹底追求した他では
絶対に手に入らない一品。(ウエストの絞り、狭いアームホール、細く直線 的な袖、
ゴムで絞らない袖口など、ダウンジャケットの基本形をことごとく無視)
外側には柔らかく光沢感のある高機能ナイロン素材を使用し、両肩には「離れ 二本引き」の
刺繍が施されている。縦開きと横開きの2種類の内ポケットが内蔵され、ヘッドフォンコードが
固定できるホルダーまで付いた、機能性も重視した純国産ダウンジャケット。
 
 
毛編み帽「二重鉤」
価格:7,140円(税込) 色:黒、墨黒 サイズ:中
 
二つに重なる鉤型文様をくっきりとした配色の編柄で表現したニット帽。
黒には白、墨黒には中紅(ピンク)の「二重鉤」が鋭く走る。
 

 
■■義志情報通■■
スキマスイッチ常田真太郎さんとの別注企画、予約受付開始
 
結成10周年を迎え、3年ぶりとなるオリジナルアルバム
「ナユタとフカシギ」をリリースしたスキマスイッチ。
これを記念して、義志を愛用する常田真太郎さんとの別注企画が実現しました。
「ニホンオオカミの柄が入った羽織が欲しい」という常田さんの要望に応え、
睨みをきかした狼の徘徊する様を胸部に大きくプリントした裏毛頭巾羽織を製作
小萩も中サイズのみ入荷します!
 
裏毛頭巾羽織「徘徊」
価格:18,900円(税込) 色:緑、墨黒 サイズ:小、中、大
 
商品の詳細・ご予約はこちらから
 

 
■■進化せよ、日本■■
 〜代表・緒方義志の言いたい放題36〜
 
 
文化を守るとは
 

一般的に「文化を守る」という概念自体は、日本人のほとんどがそれを正しい行為と捕らえており、

その是非を問う議論は、このメールマガジンを読んで下さっている方々とは不要かと思いますが、

このような時に使われる「文化」という概念について、私たちは往々にして、無意識的に目に見える

物や事のみを対象としていることがしばしばです。たとえば、着物や下駄、畳や床の間、茶道や剣道、

能や歌舞伎などがその代表例と言って良いでしょう。このような文化は絶対的に守るべき

日本のアイデンティティであると考えられているがゆえに、これらの文化に対する

保守や保存の意識は総じて高く、実際にそれらの事どもに関与する人口は年々減ってきてはいるものの、

これらの文化を大切にしたいという国民の思いはある種の良識として私たちの感情の中に備わっています。

その証拠に、これらかたちある文化に対してそれを変えるべく手を加えようものなら、

その行為に対しては大変厳しい世論の反発が義憤となって表れます。例えば洋服で茶会を行うとか、

現代の言葉で歌舞伎をやるとか、柔道着を青くするとか、着物の着丈を大胆に短くしてしまうとか・・・。

 

先般も、どこかのデザイナーが、あるミスコンテストの世界大会に向けて製作した衣装に対し、

「日本の伝統文化を汚した」というかどで、日本文化を愛する多くの道徳者達からお咎めを

受けていましたが、あの時も結局は日本文化の目に見えるかたちを変えてしまったことが

文化破壊であると糾弾されたわけです。しかし、彼が重視したのは目に見えるかたちより

もっと重要な部分である文化の心性であり、それがどんなものであったかと言えば、

今自分が生きている時代の感覚で着物を楽しむという当たり前の遊び心であり、着物を着るという

文化の可能性を模索する、日本人が元来持っていたであろう飽くなき好奇心と探究心だったのです。

 

そのような日本人が生来備えていた、または、代々育んできたような思考形態や行動様式というものこそが、

もしかしたら文化の真髄なのではないかと私は考えています。「文化を守る」という考え方を

私はあまり好きではありませんが(「文化をつなぐ」とか「文化を伝える」という方が

どちらかというと私にはしっくりきます)、もし私たちが文化を守ろうと強く思うのであれば、

かたちや見え方にだけ捕らわれていてはそのかたちの源泉である文化の心性の本質を

見失ってしまうでしょうし、また、その心性の発露としての思考形態や行動様式を

ないがしろにした文化保守論争などは不毛極まりないものであると言っても過言ではありません。

 

三島由紀夫は、昭和43年に著した「文化防衛論」の中で、「われわれが『文化を守る』というときに

想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ文化の二つである」と延べ、

「第一に、文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、

又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、(中略)従って、

いわゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する」と書いています。そして、

「日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない」と鋭く指摘していますが、

要するに、私たちを特徴付ける大切な文化とは、実は、物品や芸や道などの目に見え、かつ、

触ったり習ったり鑑賞したりし得るひとつの体系として完結した物や事のみならず、

絶えず止まることなく流れ続ける私たちの生活や一年の暮らし、または私たちが生まれてから

死ぬまでの間に総体的に取る行為や平均的個人の当たり前の行動そのものでもあるということです。

 

にもかかわらず、どちらかというと「博物館的な」文化の保存にばかりに正義を見出して、

今自分が直接関わっている文化、現在進行形で自分が作り上げている生きた文化を

どう形成していこうかと考える事にはまるで関心がないくせに、「文化を汚すな」などと宣って、

文化の番人よろしく、他人の行為や行動を糾弾する道徳者がいかに多いことでしょう。かく言う私も、

日本文化についてはあれこれと好き勝手に私見を発散していますが、他人に対して「お前は

日本文化を汚した」などという発言は、滅多なことでない限りおこがましくてできるものではありません。

 

件のデザイナーが手がけた衣装に関して言えば、世論の関心は、「着物の正しい着丈を守れ」

「西洋のアイテムであるガーターベルトなんかと一緒に着るんじゃない」「着物を革などで作るな」

「ちゃんと襦袢を着ろ」等、あるべきかたち(もちろん、彼は「べき」などとは思っていませんでしたが)を

変えられたり、異質のもと組み合わされたり、あるべきものを取り除かれたりすることに対する

文化防衛にありました。これは、彼らにとって守るべき大切な文化の様態が思いがけないかたちに

変化したり結合したりすることに対するヒステリックなまでの拒絶と抵抗だったわけですが、

私に言わせれば、もっと頑固に、かつ、慎重に保守すべきは、文化の表層であるかたちや

見た目の部分ではなく、そのかたちや見た目を作り出す人間の心性に他なりません。

 

三島が先の著書の中で「文化を守る」という概念について、「守るという行為の価値が、

現状維持に存在しない」と語り、「守るべき対象の価値がおびやかされており、

したがって現状変革の内発性をそのうちに含み、この変革の方向に向かって、

守るという行為を発動するというのが、その一般的態様でなければならない」と主張しているように、

守ることとは現状を維持することではなく、むしろ守るために自ら変わるということこそが、

場合によっては守るという「行為」になるということなのです。もちろん、その変化には

意味があってしかるべきですが、確信的変化であれ実験的変化であれ、それが守ろうとする

対象の価値や、その価値を慈しむ主体者の心性の継承にあるならば、それは短絡的に一時代の文化の様態を

そのままの状態で残すということよりもよほど「文化防衛論」的には価値の高い行為だと私は考えます。

 

むしろ危ういのは、思考形態や行動様式など、文化の動態を司る生活や風俗という私たちの

行為そのものが文化の対象として認識されていないということです。かたちある文化の変化や結合、

放棄や忘却に対してはこれだけ慎重で厳格な姿勢を崩さない日本人が、こと自らが今現在作り上げている

風俗としての文化に対しては、異質なものでも無意味なものでも、何でも楽しければ受け入れてしまうという

寛容さを持っていることが、私にはとてもアンバランスに思えてしまうのです。これだけ日本文化の

あるべきかたちに対して頑なな姿勢を貫く人々が、風俗や習わしといった目に見えにくい

心の文化に対してはあまりにも刹那的かつ快楽主義的なのがどうしても解せません。

 

地域の生活に根ざした風習や習わしを親が子供に伝え教えていくことはとても大切な教育の根源ですが、

例えば、その由来や意味すらろくに教えることができないような得体の知れない異国の宗教祭事を

家族揃って、さらには国民総出で祝ってしまう今日の日本文化のありように対して、

私たちは何ら恥じる様子もなければ、文化的な心の葛藤も、大人としての良心の呵責も驚くほどありません。

ただそこにあるのは、商売の販促装置として消費者に面白おかしく異国の宗教行事を節操なく提案し与えていく産業界と、

その仕掛けにまんまと乗っかって楽しんでいるだけの子供じみた大人たちです。このように精神の通わない祭事を、

海外のファッションを取り入れるがごとくに次々に自らの文化に輸血する行為は、それ自体意味が

希薄であるどころの話ではなく、文化を酩酊させ錯乱状態にする行為ですらあり、社会や親が「楽しいから」

という理由で子供達に心性を欠いた動態文化を無思考に与えていくことは、文化を大切にするという

意識を持った民度の高い人間を育成する責任において、私たちは明らかにいい加減であると言わざるを得ません。

 

本当に可哀想なのは子供達です。自分にとってどのような意味があるのかよく分からない異国の宗教行事を

親から習慣として植え付けられてしまった彼らがいざ大人になって、今度は自らの子供達にその意義や精神性を

どのように伝えればよいというのでしょうか。それとも、「何もそんなに硬く考える必要はないさ。

2月にはチョコレートを好きな子にあげて、10月にはお菓子を買い込んで仮装をし、12月にはツリーを飾って

プレゼントを交換する。それでいいじゃないか。これこそが日本文化が世界に誇る吸収力と柔軟性さ」

という陽気で前向きな思考こそがより文化度の高い日本を作り上げていくとでも言うのでしょうか。

こんな軽薄な思考形態が日本人の文化の真髄だなどと私は思いたくありませんし、こんなに節操のない

行動様式が次の世代になんとなく継承されていくことにこれっぽっちの文化的価値も感じません。

 

時代の流れは、クリスマをもはや日本人にとってなくてはならない当たり前の行事として捕らえらえるようになり、

次はハロウィンが新たな季節行事として日本文化の中に定着しようとする兆候がはっきりと見え始めています。

最近見たニュースなどでも、日本社会にハロウィンの文化がいよいよ根付き始め、その関連市場は

年々倍増しているということが誇らしげに報道されていましたが、こうしてまたひとつ、

クリスマスやバレンタインデーと同様に、産業界の巧みな仕掛けによって異国の祭事の空疎な真似事が

日本の風俗のひとつに加わろうとしています。こんな露骨な商業主義と、西洋文化に対する飽くなき憧れ、

そして、楽しそうなことに対する短絡的な欲求のみで、日本の季節の風景を変えてしまうことに

何の躊躇もないような思考形態が日本文化の豊かな心性の表れだなどとは私は決して思いたくありません。

 

「文化を守る」ということをひとつの正義として私たちが口にするとき、自らの行為の中に

重大な一貫性の欠如や自己矛盾がないかどうか、もう少し冷静かつ客観的に考えてみる必要が

あるのではないでしょうか。このメールマガジンで、私は再三にわたり、意味もなくクリスマスや

ハロウィンを祝う日本人の無思考性について苦言を呈していますが、今回も、これを読んで下さっている方々にとっては

いい加減に辟易する内容となってしまうことを承知の上で、敢えてこれらの事どもについての私見を述べさせて頂きました。

どうしてもこの時期になるとこれを言わずにはおれない私のしつこさを、どうかお許し下さい。

 

 

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